
どうも!運営のクマパパです。カメラ歴15年の休日カメラマンです。
今回は意外と知らないカメラメーカーについてフォーカスを当ていこうと思います。
まず最初は今や知らぬ人はいない大企業であるCanonですが創業時の話を知っている人はそう多くはありませんよね?
Canonが如何にここまでの大企業に成長し、カメラ市場でシェアNO.1を誇れたのか。
その歴史を紐解いていきましょう。
創業者 吉田五郎

1932年(昭和7年)ではライカ、コンタックスが2大ブランドである時代で日本の大卒初任給は70円でライカやコンタックスはその当時で420円と超高級機であったそうです。
高いっ!給料の6ヶ月分じゃないですか!しかも70円は当時からしても良い給与だったそうです。
そのカメラを分析し、国産のカメラを作ろうとしたのが創業者の吉田氏でした。
吉田氏は広島県出身で何を思い立ったのか学業半ばで上京してしまいます。
そこでカメラに関わる仕事に従事するんですね。
行動力が凄い。
試作機の誕生のきっかけ
吉田氏は部品調達の為に日本と上海を頻繁に行き来していた頃にアメリカの貿易商と出会い、彼から言われたことで国産のカメラを作ろうと決意します。
「日本にも戦艦や飛行機を作る技術があるのだから国内でも作れるんじゃないか?」と言われたことで思い立ったようです。
そして試作機としてCanonの始まりである「KWANON」が作られました。
そうか、最初からCanonではなかったんだね!
「カンノン」は吉田氏が観音様を信仰していたことから名付けられたそうです。
しかし、市場に製品を投入しようにも肝心のレンズが無かったので日本光学工業(Nikon) の協力もあってCanonのカメラ第一号「ハンザキヤノン」が完成しました。
ここでカンノンは「キヤノン」に変更されます。意味としては聖典、規範、標準であり正確性を重視する商標として生まれ変わりました。
ハンザとは中世の北ドイツ中心の都市同盟のことで語源は「集団」を意味したんだね。
そこの貿易商人の組合を指す言葉がハンザ同盟だったとか。
Canonの前身は精機光学工業だった

ハンザキヤノンの販売で一躍注目を浴びたが生産能力は月に10台で少ないときでは週に1台しか作れなかったとか。
経営状況は芳しくなく、苦しい状態だったそうです。そこで危機を脱すべく行ったことが法人化でした。
出資者を募り1937年に「精機光学工業株式会社」が設立されます。
法人化により経営が軌道に乗り始めたが1台1台、手作りのカメラは一般サラリーマンの給与40円から50円に対してまだまだ高い時代でした。
ハンザキヤノンの独占販売権を持っていた近江屋
近江屋の営業マンは月収20円と高くはない水準だったようです。
しかし、歩合で1台売ることで5円のインセンティブがあり社員のモチベーションの維持や販売増に繋がったようです。
その裏には販売戦略があり、高価なカメラを売るには小売店ではなく購買力のある個人に的を絞ったそうです。
これが功を奏して販売増になったのですね。
購買力のある個人とありますが要は富裕層に的を絞ったということですよね。
この快進撃により創業1年後にはヨーロッパへと販路を広げようとしていたというので驚きです。
EOSレンズではなかった『セレナー』の時代

創業時から独自のレンズを作りたいと思う気持ちがあり、精機光学工業の光学技術者の古川良三氏はf=50mmF3.5やf=135mmF4のレンズを製作しました。
そのレンズには社内公募により選ばれた「セレナー」と名付けられました。
セレナーにはセレン=澄んだという意味と月面にある海に由来しているとのことです。
社長になったのは産婦人科医だった?
1942年に社長に就任したのは御手洗毅氏でした。
彼は精機光学工業の仕事に関わりながら本業は産婦人科医という経歴の方で自身の御手洗産婦人科病院を設立しています。
産婦人科医として成功しながらも精機光学工業の仕事に助力しているなんて凄い方ですね!
御手洗氏は精機光学工業の監査役を務めて社長に就任したとのことです。
戦後に彼が唱えたのは「ライカを追い越せ」でした。その精神が戦後会社復興の原動力になったのです。
現代にも通ずる3つの主義
- 実力主義
- 健康第一主義
- 新家族主義
どれも現代の会社にもある社是のようですね。
中でも面白い主義に新家族主義と呼ばれ、G・H・Q「Go Home Quickly 早く家へ帰れ!」と唱えていたそうです。
現代でいうワーク・ライフ・バランスに近い考えがあったのでしょうか。
御手洗氏はその後も様々な改革を行い、従業員の士気を高める政策を行いました。
戦後の会社復興の立役者

精機光学工業の復興、成長の裏には社外のある人物が大きく関わっていました。
彼の名前は合波武克人【ごうはむ・かつんど】
日本に帰化したアメリカ人で、あの日産自動車の設立に参加した人物です。
技術者でもある彼は精機光学工業に様々な助言を行い、機械の導入や技術情報、生産体制、検査体制について改善していったと言います。
私個人の見解として驚くのは戦争に負けた相手でもあるアメリカ人に学ぼうとするスタンスに驚かせられましたね。
1947年 キヤノンカメラに社名変更
当時、日本に滞在する進駐軍と呼ばれるアメリカ人の兵士からの需要もあり販売台数が増えていきました。
しかし、製品と社名が紐付かないとの指摘から精機光学工業株式会社からキヤノンカメラ株式会社に早急に変更したようです。
思い立った瞬間に行動する機動力が戦後のキャノンの成長に一役買っているのは間違いないですね。
変化はそれだけではなくセレナーレンズの製作が安定したことから日本光学工業【Nikon】からレンズ供給を停止されます。
社名を変更してからキヤノンからついにレンズの名玉が誕生します。
1951年『セレナー50mmF1.8』
当時、ガウスタイプのレンズはフレアの発生が課題でした。その問題を独自の技術により問題を解決したのがこのセレナー50mmでした。

1953年にはセレナーからキヤノンレンズへと名称は変更されます。
35mmレンジファインダーカメラの次は?
そもそもレンジファインダーカメラとは何か?
レンズの繰り出し量などを測定して合焦装置と光学距離計を連動させて❇︎スプリットイメージや二重像の重ね合わせを行う構造のカメラです。
❇︎スプリットイメージはファインダーの中心に丸い円があり上下の像のズレを合わせることでピントを合わせる為の仕組みになります。
コンパクトでレンズ設計への制限が少ないという特徴がありました。
しかし、時代は徐々に一眼レフへと移り始めておりKANONから続いたレンジファインダーカメラは1968年に製造が中止されることで終焉を迎えました。
キヤノンは1959年には初の一眼レフを開発し、交換式レンズを「Rレンズ」と名付けられました。
転換期はこれだけではなくキヤノンのカメラは高級一眼レフだけでなく誰にでも買えるカメラを作っていました。
そうです、高級機路線でカメラを作るというスタイルをついに崩すことになるのです。
1961年 キヤノネットが発売
「誰でも買える、写せる」のキャッチコピーで一世を風靡したキヤノンのヒット商品となりました。
その盛況は日本橋三越で展示販売され、1週間分用意していた在庫が2時間で完売するほどでした。
業界からも反発が大きく「週刊文春」の記事に『くたばれ!キヤネット』と書かれるほどだったようです。
今では考えられない凄いストレートな記事ですよね。
ついに現在の社名になる

実は1960年代からキヤノンは事務機、光学特機の売上が急激に伸びており、カメラ専業のイメージを一新したい狙いがありました。
1969年に「キヤノンカメラ株式会社」から『キヤノン株式会社』に社名を変更しました。
なるほど。イメージを一新するには社名を変更する必要があって、キヤノンからカメラの名前が無くなったんだね。
そして、ついに名機「F-1」が登場

1964年から一眼レフのプロ機を作ろうとの声があり5年の歳月をかけて開発したのがF-1になります。
そして1976年(昭和51年)モントリオール・オリンピックと1980年(昭和55年)レイクプラシッド冬季オリンピックで公式カメラに認定されたのです。
その後も改良を加え電子制御システムを導入したNEW F-1が登場しました。
今でも中古機として売っている店もあるので気になったら中古カメラ取扱店に行ってみてください!
フィルムからデジタルの時代へ〜
1986年にキヤノンは世界で初めて製品化された磁気記録カメラ「RC-701」を発売しました。
時代を遡るとわかることはオリンピックの開催に伴いカメラの進化が著しいね!
しかし、ここでキヤノンに激震が走るニュースが入りました。
ミノルタのα-7000とNikonのF-501が発売されこれまでのMFの時代からAFに変わり市場のシェアは50%にもなったのです。
出遅れてしまったキヤノンは創立50年に当たる1987年に他社よりも性能性が高いAF一眼レフを発売すると表明しました。
そうです。それが現在のカメラの名前にもなっているEOSカメラです。
EOSとは【Electro Optical System】の頭文字からなりギリシャ神話に登場する「曙の神」の名でギリシャ語でエーオース、ローマ神話でなアウローラと呼ばれている女神が由来になっています。
1987年 EOS の躍進
最新の技術を導入し、満を持して発売されたEOS650は発売から2ヶ月で国内、ヨーロッパ市場でシェアNo.1を獲得しました。
キヤノンのEOSの名は一躍有名になりました。
その後、待望のフラッグシップ機となるEOS-1が登場しました。
ハイクオリティのAF性能はプロの写真家たちに認められるようになりました。
EOSの裾野を広げたカメラの進化
今では知る人も多い「EOS kiss」は1993年に登場しました。
kissの意味を知っていましたか?
Keep It Smart and Silent
賢く静かなという意味が込められていたんですね。
軽量かつコンパクトな一眼レフカメラは女性ユーザーに人気になり大ヒットとなりました。
2000年代はコンパクトデジタルカメラの急速な普及もありカメラの性能は格段に上昇しました。
IXYやPowerShotなど知る人も多いのではないでしょうか。
そしてCanonのカメラは2008年には一眼レフカメラの累積生産台数を5000万台を突破します。
2021年に話題になった富士フィルムで1億万画素のフルサイズの一眼カメラを発表しました。
ですが実は2010年には1億2千万画素のセンサーを発表していたんですね。
技術としては製品化が可能ではありましたが製品化まではしなかったのですね。
1億2千万画素は人間の眼の視細胞数と同程度であり、2010年では世界最高だったそうです。
そして2014年にはレンズも販売本数を1億本を突破し、カメラ業界を牽引する大企業にまで上り詰めました。
現在のカメラ市場のシェアは?

2021年にBCNの発表では
デジタル一眼レフカメラ
1位Canon 51.9%
2位Nikon 44.8%
3位RICOH(PENTAX) 3%
この順位を見るとCanonとNikonが市場を独占している状況ですね。
しかし、ミラーレス一眼カメラでは順位は変わります。
1位SONY 27.4%
2位Canon 23.8%
3位OLYMPUS 23.4%
Canonはミラーレス機においては少々出遅れた感がありますがSONYに首位を譲ったままとは考え難いでしょう。
今後、Canonがどの様なカメラを生み出しシェアを挽回させようとするのか楽しみですね。
最後に
Canonの歴史を振り返ると多くの事に挑戦して失敗や成功を重ねてきた結果がシェアNO.1を達成できたのだとわかりますね。
スマートフォンのカメラが高性能になり一眼カメラとの棲み分けを今後どの様にして市場を発展、維持していくのかが注目したいところです。
最後までありがとうございました。